呉服座の歴史

伝説の芝居小屋

呉服座は、もと池田市西本町、呉服橋の南、猪名川の堤に沿って位置した芝居小屋でした。
呉服座がかつて所在したあたりは、江戸時代以降、池田の西の入り口という意味で「西之口」といわれ、箕面の勝尾寺と宝塚の中山寺を結ぶ「巡礼道」と大阪と能勢を結ぶ「能勢街道」が交差する場所にあたります。明治6年の地租改正の際に制作された「池田村絵図」にはまだ呉服座は確認できないのですが、明治20年頃の「西之口戎(えびす)座」と書かれた入場割引券が発見されており、戎座が呉服座の前進ではないかといわれています。
昭和44年の呉服座移築調査の際、棟束の筋違に打ち付けられていた長さ約2mの幣束が発見され、「上棟明治25年8月10日建」の記載があることがわかりました。またこの頃から呉服座は「くれはざ」と呼ばれるようになったのではないか、と考えられていますが、「五幅大入」ということから地元の人からは「ごふくざ」とも呼ばれていたとされています。

呉服座では地方巡業の歌舞伎をはじめ、落語、講談、漫才などいろいろな演芸が催され、娯楽の中心地として人々から愛されましたが、映画やテレビの台頭により、徐々に衰退の道を辿り、昭和44年(1969年)5月の興行を最後に幕を閉じることになりました。
閉館後は解体され、昭和46年愛知県の明治村で復元公開されました。昭和59年には江戸時代の芝居小屋の建築様式を残す数少ない建築物として国の重要文化財に指定されています。

池田呉服座は江戸時代に建てられた呉服座の優れた建築様式を一部再現して、以前あった池田中央シネマの場所に建てられています。もともと演芸が好きであった池田の方々はもとより全国の方々に、再び歴史ある旅芝居やさまざまな演芸を楽しんでいただける場として愛されることを切に期待しております。

池田呉服座歴史ギャラリー


現在明治村で復元


当時の呉服座内部


当時の呉服座内部


当時の呉服座舞台

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